”私”に対する執着

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最近お気に入りの黒糖食パンです。
黒糖食パンを買うと専用の紙袋をくれるので、ちょこっとずつこの紙バッグが家に溜まっています。意外と使いやすくて、他の用事の時も使ったりしています(^^)

写真がパンじゃなくて、紙バッグになってしまってますが、もちろん、黒糖パンの味はとても美味しいです。甘さが控えめで、好みの味です。

ヨガを始めてから十数年になりますが、それ以前と一番変わったことは食事です。身体にいいものを摂取しよう
食べるものに気をつけるようになりました。といっても、ストイックなベジタリアンやビーガンではありませんが、例えば旬のものを積極的に食べたり、冷える食材のものは控えたりと身体が常にいいエネルギーを持てるように気を使っています。

食べるものに気をつけるというたったひとつの注意から、運動もしよう!とか、いい呼吸を維持しよう!とか、お肌の潤いを保つようにしよう!とか、色々なことへの注目度が高まります。一見、たくあんあって面倒のように見えますが、興味を持って気づくことを大事にしていると、それらの行為はシンプルに一つのものになっていきます。ライフスタイルの一部になっていきます。

しかし、健康というものは、ともすると執着になることもあります。全員がそうだとは言いませんが、ベジタリアンとかビーガンの方の中には頑なに”お肉は食べない!”などと決めていて、ストイックになっている方もいます。すると、食べないことが目的となってしまい、身体が欲している時も無理をしてしまったり、人間関係の輪の中でも自我を貫いたりしてしまうことも。
そんな場面を過去に何度も見てきました。ヨガの世界では結構ありますね、これ(笑。

執着は、中庸を歪めます。瞑想哲学的に言うと、執着は自我です。ヨガも身体を使ってアーサナをしていくプロセスを踏むので、目に見えるものは観念を固定化しやすく、そこにストイックになりすぎることもあるでしょう。瞑想を始めて数年経った時、身体というものにある意味執着心があったなと気づいたことがありました。私という意識は、もっともっと広くなっていくべきなのです。身体の知覚から得る私という絶対的な個体は、そこに留まらず、もっと世界とか、周りの環境へと広がり、溶け込んで調和していくことが必要だと気づきました。

だから、アーサナだけのヨガは危険かなと思うのです。身体ばかりを観るのではなくて、感情や精神の状態や心身を丸っと大きな視野で見ることも大切だと思います。その意味で、メディテーションをライフスタイルに取り入れたことは正解だったなと思います。
そして、その心身は、食べ物のエネルギーにも影響されますから、生活の全てが私たちの心身をカタチ作っているのだと思います。

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